火炎と水流
―邂逅編―


#2 うへっ! かわい子ちゃんが水に……!


火炎は人気のない裏通りを歩いていた。先程までの熱気と騒がしさがまるでウソのような静けさだ。家も獣も、みな眠りに落ちているのだ。あの古い家は、すっかり焼け落ちてしまった。と、同時に、あれ程までに美しく妖艶だった炎のはぜる音も騒がしい人間達のざわめきも、今は何一つ聞こえない。そして、あのこざかしい水使いの少年の声も……。
火炎はふと足を止め、つぶやいた。
「おれだって、あんなことしたくなかったさ」
見つめる先は闇――。虚空は暗黒に染められて、なお一層火炎の心を暗くした。
「子供にマグマを使うなぞ……」
空は厚い雲に覆われて、切れかけた暗い街灯が、時折、静かに瞬いている。
(だが、おまえがいけないのだ。おれが、どんな思いで奴を、砂地を追い詰めたのか知ろうともせず、おれの制止を振り切って飛び出したおまえが……)

その時、フツッと街灯が消え、火炎の周囲が暗くなった。火炎は、一つ先の街灯の光へと足を向けた。と、その時。
「…待てよ!」
背後の闇の中から声がした。少年の声だ。まさか、と思って振り向くと、黒い電柱の影に水流がスクッと立っていた。
「そうだよ。おまえのことさ。火炎」
水流は強がって言ったが、その全身は、今にも溶けてしまいそうに水がしたたり、ハアハアゼイゼイと呼吸も荒くなっている。寄りかかった電柱からツーッと水が流れて行った。水流は何も身につけてはいなかったが、火炎は驚かなかった。じっと少年を見つめ、それから、黙って歩き出した。

「待てってんだよ、コラ……」
あわてて追おうとして手を離したとたん、よろけて膝をついた。が、火炎は振り向かない。それどころか、さっさと歩いて行ってしまう。
「ちくしょー……! 待てってんだ! 不良妖怪! 今、このおいらが成敗してやるんだから……!」
そうして、水流は火炎を追った。倒れても、つまづいても、ヒタヒタと後を追い続けたのである。火炎は足を速めるでもなく、ゆるめるでもなく、ひたすら真っ直ぐ歩き続けた。
「てやんでェ、あいつ、どういうつもりなんだ……? このおいらから逃れられるとでも思ってんのか? ちゃんちゃらおかしいぜ。ちゃんちゃ…ら……」
そうして、水流は何度目かの闇に沈みそうになった。もう限界だった。

彼らは、もともと自然界に存在する自然そのものなのだ。水流はその名の通り、原型は水。ダメージを負えば、原型に戻ってしまう。それが一番楽な形だからだ。そして、その原型の形のまま留まることにより、ダメージを回復させることができる。まさに、自然治癒力の結晶なのである。もちろん、彼らの中には、無理して人間の姿になったりせず、原型の姿のまま、何十年何百年も過ごすものもいる。ものすごいものになると、遥か昔、人間も恐竜もいなかった頃から存在しているものさえいるらしいのだ。が、それは、また別のお話。要は水流である。火炎との戦いで、彼はダメージを負い過ぎたらしい。人の姿を保つことができず、下半身が溶け出していた。

「ちくしょ…意識が……」
ボヤける視界の片隅に火炎を見つけ、彼はハッと目を見開いた。火炎は2階建てのアパートの外階段を上って行くところだった。
「あいつ。また、人間のいるところに……」
水流は力を振り絞って立ち上がり、そのアパートの門扉にかかった小さなプレートを見た。『若草荘』。それが、その建物の名前だった。水流は、ソロリと階段の手すりをつかみ、鉄製のそれをゆっくりと上った。カンカンカンと先を行く火炎の足音が軽やかに響く。裸足の水流の方は、そんな景気のいい音は出ない。一歩上る度にペチョン。また一歩上る度にピチョッ。ピタ。ペト。トテ……と上る度に水たまりを作り、サビた手すりから、ハゲて鉄がむき出しになっている段から、すべり落ちそうになってはまたしがみつき、やっとの思いで上までたどり着いた。

「あいつは……?」
そこには、もう火炎の姿はなく、かろうじて、端から四つ目、奥から二つ目のドアが閉まりかけていることに気づき、水流は急いで駆けよった。が、ドアは、その鼻先でバタンと閉まってしまう。
「ちくしょ……待ちや…が……れ…」
水流が、ドアのノブをつかんで力いっぱい回した。スッと戸が開いた。簡単には開かないだろうと思っていたそのドアが、あっさりと開いたのだ。そして、パッとあたたかな光が部屋いっぱいに広がった。いきなりだったので目にまぶしい。水流はクラクラと目まいを感じて目を閉じた。すると、男の声が静かに言った。
「閉めろ」

ぼんやりしている水流に、再び男が命じる。
「早くドアを閉めろと言ってるんだ。冷気が入る」
「あ、ああ……」
呆気にとられながらも水流がそうすると、男がホイッと何か放ってよこした。それは小さなビンで、ストンと吸い込まれるように水流の手の中に収まった。何だろう? と少年がいぶかしんでいると火炎が言った。
「塗っとけ。火傷の薬だ。もっとも、それは人間用の薬だから効果の程はわからんがな」
そう言われても、水流は何が何だかわからずにキョトンと男を見上げていた。火炎の声がだんだん小さくなり、視界がゆがみ、フッと意識が沈んだ。少年の姿は消え、玄関に小ビンが転がった。そして、さっきまで少年がいたその場所には、まるで、おもらしでもしたような大きな水たまりが所在なげに広がっていた。

気持ちのいい夢だった。フワフワとユラユラとあたたかい……。できることなら、ずっとそうしていたいと思う。水流は、フッと水の中で目を開けた。
(ここは、一体どこなんだろう……?)
心地よかった。キラキラしていた。そして、満たされていた。
(ああ。何だろう? 天使の声が聞こえる……)
水流はすっかり夢ごこちでボウッと天を見ていた。天には、やわらかな白い霧がたちこめて、ポタリポタリと落ちる水音さえ幻想的で美しい響きをしていた。
「だれかいるの?」
真上から声がした。霧の中に浮かぶそれは、まさに天使。白くやわらかい肌は透きとおるようだったし、つぶらな瞳は、何物にも代えがたい程魅力的だし、その唇はバラのつぼみのように愛らしかった。可憐な少女は、首を傾げてじっと水の中の水流を見つめている。
(この少女の背中には、きっと天使の翼が生えているにちがいない……)
憧れと崇拝の瞳で、水流はじっと少女を見つめた。

「おいで」
と、少女がそっと水の中に手を入れた。
「うわっ!」
と水流は思わず叫んだ。その少女は生まれたままの姿でまばゆく微笑んでいた。
「は、裸の女の子が……!」
水流は一気に現実へと目覚め、あわてて水の外へと飛び出した。ザバッと水、いや、お湯があふれた。そこは、小じんまりとした四角い部屋だった。水流は、その半分程を占めたバスタブの中にいた。驚いたように見上げている少女。その背後で、火炎がシャワーヘッドを持ったまま、じっとこちらをにらみつけている。
「こ、これは一体……?」
水流には何が何だかわからなかった。

「あなたは、だあれ?」
と少女が訊いた。
「あ、おいらは、谷川水流。で、その……」
水流が次に何を言おうか迷っているうちに、少女の方から質問してきた。
「火炎のお友達?」
水流は驚いたが、返答に窮してもじもじした。
「え? その、まあ、そんなもんっていうか……」
水流が困って頭をかいていると、火炎がボソリとつぶやいた。
「勝手に友達にするな。迷惑だ」
「おいらの方こそ迷惑だい。おめーのような不良妖怪とお友達だなんてさ」
「人の家のフロで勝手に休んでおきながら何を言う? 回復したなら、とっとと出てけ!」
「チェッ! 何だい何だい! 言われなくたって出てってやるよ」
そう言って水流はジャバッと湯船を出た。

「ここ、赤いよ」
と、少女が水流の体を指差して言った。
「あ、ああ。まだヒリヒリすんだよな。誰かさんのせいでさ」
と、水流は思い切り火炎をにらんだ。が、当の火炎はソッポを向いている。
「痛いの? かわいそう」
そう言うと、少女がそっと小さな手で触れてきた。一瞬、トロけそうなやさしい感情に包まれて、水流は我を忘れた。
桃香ももか! そいつにさわるんじゃない」
と火炎が言った。
「どうして?」
「こいつは、おまえのお友達にふさわしくないからだ」
桃香は不思議そうに火炎を見上げている。

「ケッ! 何だよ、何だよ! まるで、おいらが親の敵みてーな言い方しやがってさ」
と、水流が不満そうに言った。
「まさしくな」
火炎はクルリと背中を向けると、桃香を呼んだ。
「おいで。洗ってあげよう」
「うん。火炎。だあい好き!」
と言って、少女はしゃがんだ火炎に抱きついてキスした。火炎はうれしそうに微笑する。水流は独りぼっちで天井を見つめた。その顔にポチャリと水滴が落ちる。
(何だかわかんなくなっちまったな。火炎て、ホントはいい奴なのかな?)
「なあ。桃香は、あんたの子供なのか?」
と、水流がきいた。
「いや。人間の娘だ。五つになる」
少女の体を洗ってやりながら、火炎が言った。

「人間だって? そんじゃあ、どっかから、さらって来たのか? やっぱりおめー、悪い奴なんじゃねーか!」
「ちがうよ! 火炎は悪くないもん!」
と桃香が水流をパシパシたたいた。
「あ、ああ。ごめん。ごめん。桃ちゃん。許して」
水流は謝った。泡に包まれてプッとふくれた顔がまた、何とも言えずかわいらしい。シャボン玉がふわりと飛んで、いくつも光の虹を映している。
「まったく。天使の嬢ちゃんにはかなわねえな」
と頭をかいた。
「そう。桃香は本当に天使なんだ」
火炎はうっとりと少女を見て言った。水流は、少し意外な顔で男を見た。
「桃香の母親もそうだった……」
フッと火炎の目が遠くをさまよい、やがて、悲し気にうつむいて拳を握った。

「それって、まさか、その……?」
水流が聞いた。火炎は暗い顔でうなずき、桃香にかけてやっていたシャワーが僅かに乱れた。水流は、それ以上聞かなかった。聞いてはいけないような気がしたからだ。火炎は黙って桃香を湯船であたたまらせると、数を数え始めた。
「あと十数えたら出ようね。ようくあったまらないとカゼを引いてしまうからね」
火炎は、見た目には二十才前後に見えたが、こうしていると、本当に若い父親のようだった。やがて、火炎は桃香をバスタオルにくるむと、ドアを閉める寸前に言った。
「桃香の母親は……砂地に殺られたんだ」
パタンと小さな音をたて、ドアが閉まった。鏡は曇って何も見えない。ドア越しに聞こえる二人の楽しそうな声……。やがて、明かりが消され、声が途切れても、水流はじっと動けずにそこにいた。